ブータン概説

地理

 ブータンは、インドとチベットに挟まれた、東西に広がるヒマヤラの山岳地帯に位置する王国です。その面積は、約38,000平方kmで九州とほぼ同じ、あるいはスイスやオランダに近い広さです。日本の丁度1/10の面積でもあります。地球上の位置を示す緯度は、北緯26.7度から北緯28.0度までの間にあり、およそ日本の沖縄諸島の緯度に相当します。経度に関しては、東経 88度から92度の範囲にあり、日本との時差は3時間(遅れ)です。
 ブータンとインドとの国境沿いのところは標高200mまでの低い地域ですが、インド国境から北に向かうとすぐに1,000mを超えるような高地となり、国の北部においては 5,000mを超えるヒマヤラ山脈の高地となっています。ブータン全土が、平坦な土地がほとんどない高地と言えます。ティンプー(首都)、パロ、プナカ、トンサ、ジャカール、モンガル、タシガンなどのブータンの主要な都市は、標高1,500mから3,000mまでの東西に広がる地帯に存在しています。これらの町では、高地のために夏は日本より涼しく、冬の寒さは本州の都市の寒さとあまり変わらなく、積雪はそれほど多くありません。なお、プナカについては海抜 1,350m前後と比較的に低いために冬も温暖です。なお、南部のインド国境に近いところに、プンツォリン、ゲレフ、サンドゥプジョンカーなどの主要な都市(町)があります。

国の成り立ちと発展

 チベットからブータンにかけて、7世紀ごろから17 世紀までチベット仏教のいろいろな宗派が入り乱れて支配していましたが、1616年チベットから亡命したドゥク派の僧であるンガワン・ナムゲルが、ブータンを政教一致の国家とするための枠組を作ることに成功しました。その後、チベットやモンゴルからの軍の侵攻がありましたが、それらを撃退してブータン国としての統治を続けました。

 1907年、ブータンの中央に位置するトンサ郡の豪族ウゲン・ワンチュクが、ブータン全土への影響力を強めて世襲藩主に就任して、初代の国王となりました。その後、1952年国王に就任した第3代国王と1964年に就任した第4代国王とによって、国の近代化、国際化が進められ、国家としての体制が確立しました。特に第4代国王は、2006年12月に自ら王位譲渡を宣言し、2008年11月のジグミ・ケサル・ワンチュック第5代国王の誕生を導きました。さらに、2007年12月に上院選挙、2008年3月に下院選挙を実施し、二院制による民主主義体制を確立して、約100年続いた絶対君主国から民主主義立憲君主国に移行させました。また、国王の定年制なども明記した最初のブータン国憲法が2008年7月に公布されました。ブータンは国の政策の理念としてGNHを提唱して世界を驚かせましたが、新憲法はこのGNHを実現することを目指した内容となっています。

 最初の下院選挙では、DPT:Bhutan Peace and Prosperity Party (ブータン調和党)が、勝利し、政権を担うことになりました。しかし、その5年後の2013年7月に、それまで野党だったPDP:People’s Democratic Party (国民民主党) が総選挙に勝利し、政権の座に就きました。さらに5年後の2018年9月の選挙で、これまで一度も、与党にも、野党にもなったことのなかったDNT:Druk Puensum Tshogpa (協同党) が政権を担うようになり、現在に至っています。

民族と言葉

 国の人口は約70万人で、チベット系、東ブータン先住民系、ネパール系などの民族から成っています。それぞれの民族に独自の言語が存在しますが、ブータン政府は主に西ブータンで使われていた言語であるゾンカ(語)を国語に決めて、国のアイデンティティを保持するためにその普及に力を入れています。教育の場では初等教育から英語が使われており、ゾンカの他に英語も公用語として使われています。

GNH

 GNHとはそれまでよく知られたGNP(Gross National Product)のProduct(生産)のところをHappiness (幸福)に置き替えた頭字語です。 GNHは「国民総幸福」または、国民総幸福量、国民総幸福度などと訳されています。この語の最後に、度や量を付けたのは、人々の生活に関するデータを標本化して、母集団から抽出されるGNHを数値的に求めているからです。GNHの算出には、高度な数理統計学の知識が必要とされています。ブータンは国の方針として、「経済発展によるGNPまたはGDPの増大を目指すのではなく、国民全体の幸福を最も重視する」と宣言しました。GNHを政策として実現するために、以下の4つの柱が設けられました。それらは、

  • Sustainable and equitable socio-economic development.(持続可能で公正な社会・経済の発展)
  • Conservation of our fragile Himalayan ecology.(傷つきやすいヒマラヤの自然環境の保全)
  • Preservation and promotion of our culture.(ブータン固有の文化の保護と発展促進)
  • Enhancement of good governance.(優れた統治の実現)

 ブータンは、2005年の通常の世論調査の際に、幸福に関する簡単な質問を加え、その結果から、大多数の国民が自分は幸せであると感じていると、主に日本人によって大きく取り上げられました。その後、GNHの理念は、現実の政策の優先順位を決める上で使われることになったので、GNHの理念に沿った国民の全体の幸福度を算出するための大掛かりな調査が、2010年と2015年に行われました。これらの調査の際には、人々の幸福とは何か、人々の幸福度を測るためには、どのような指標を選択すべきか、アンケートのデータから、どのような統計学的処理が適切であるかなどについて、緻密な研究が行われました。ブータンは、国連を通して、世界の国々がGNHをその国の政治の基本理念とすることを希求しています。 

 国の近代化は近年着実に進んできており、国際化、農村から首都への人口集中、インターネットや携帯電話などの情報通信機器の急速な普及などが見られます。またごく最近では、通信用の人工衛星の打ち上げ実験を行うようになりました。一方先進国においても共通に起こっている国の近代化による負のインパクトは、ブータン社会でも免れない状況にあります。このような状況の中で、政府は伝統的な精神文化の保護および継承を前面に掲げながら、GNHに基づいた社会変革を実践しようと、国民全体が真摯な政治的挑戦に取組んでいます。
 2008年11月に即位したジグミ・ケサル・ワンチュック第5代国王は、婚礼を挙げたばかりの妻(王妃)と共に来日し、東日本大震災の被災者に対するお見舞いと激励のことばを日本国民に伝えて、日本とブータンとの友好親善の絆をなお一層強いものとしました。

開発5カ年計画

 1961年に最初の開発5カ年計画が発表されて以来、5年毎に次々と5カ年計画を発表して、ブータンの近代化を進めてきました。 現在までその成果は着実に現れてきています。現在は民主主義国家に移行してから2018年10月からスタートした第3次の政府により、第12次開発5カ年計画が実施されています。開発5カ年計画には、政治、経済・産業、教育・文化、医療、通信、国土環境、道路など、行政のすべての面での事業計画が盛られています。
 ブータンの最も重要な産業は、水力による発電事業です。ブータンの現在の水力発電の能力は、全部合わせて150万KWを越えていますが、2020年までにその能力を飛躍させて、1,000万KWを目標とする計画が立てられていました。発電した電力のほとんどが隣国インドに輸出され、水力発電は国家の重要な外貨獲得の財源となっています。

人々の生活

 宗教については、国民の一部のネパール系の人たちはヒンドゥー教を信仰していますが、国の主要な宗教はチベット仏教です。ブータンの人は仏教を深く信仰しており、伝統文化や生活習慣にはチベット仏教が深く根づいています。人々は生命の輪廻転生(reincarnation)を信じ、お墓を作らず、すべての生き物の殺生を嫌います。ブータン式の農家には、仏壇のある仏間があります。ブータンのどこの村にも寺院がありますが、チベット仏教は、日常的な生活にきわめて不便な高い山の斜面などに大きな寺院を作る傾向があります。
 ブータンで最も人気のあるスポーツは、アーチェリー(洋弓)です。単に競技の技術を競うというより、競技の中に踊りを取り入社交的なスポーツとなっています。最近は、日本からの指導者の活躍もあって、サッカー、フットサル、バレーボール、野球、ソフトボール、テニス、卓球、陸上競技、マラソン、柔道、空手なども、国際交流試合をしたり、ナショナルチームを作るなどしたりして、アーチェリー以外のスポーツも、盛んになってきています。
 ブータン全土は、20のゾンカクという地方行政区に分かれています。それぞれのゾンカクに、たいていひとつのゾン(城)が存在します。ゾンは歴史的には軍事的な要塞の役割がありましたが、現在は僧院としての役割と地方行政の庁舎の役割を持っています。言わば、お寺に県庁が同居したようなものと言えますが、それぞれの村や町のシンボル的な建物で、観光スポットとしての人気があります。首都ティンプーにある巨大なゾンがタシチョ・ゾンであり、ブータン宗教界の最高位であるジュ・ケンポが居住し、国王もそこで執務を行っています。また、ウォンディ・ポダンのゾンは、前述したンガワン・ナムゲルが1639年に創建した歴史的に重要なゾンでしたが、2012年6月の大火で焼失して人々を驚かせました。
 ブータンの人々はゾン、学校、政府機関、寺院および公的な行事が行われる場所では、男性はゴ、女性はキラという民族服の着用が義務づけられています。さらにゾンに入るときや寺院や役所で高い地位の人に会うときなどは、民族服の上に男性はカムニというスカーフ、女性はラチューという肩掛けを着用しなければならないという、正装に対する作法が守られています。政府高官が身に着けるカムニは国王から贈られるもので、その色は社会的な地位を表しています。

ブータンと日本の関係

 1964年、まだ日本とブータンとの間の正式な国交が樹立していないとき、大阪府立大学農学部、同大学院修士課程を修了し、大阪府立園芸高等学校に勤めていた西岡京治氏は、農業技術の指導のために、ブータンに渡りました。西岡氏は、日本的水稲栽培から、野菜・果樹栽培などに関わる種子・種苗の生産、農作物の品種改良、耕運機や穀類収穫処理機械などの農業機械の利用などを農業一般にわたる農業技術指導に専心し、1992年に不慮の死を遂げるまでの28年の長きにわたり、ブータン国民に多大な貢献をしました。ブータンの国民から、「ブータンの農業の父」と呼ばれて尊敬されました。また、5年間にわたり、ブータン中央部の南部のシェムガン県の山林地帯に飛び込み、村民が定住して農業を営むようにするための総合地域開発のプロジェクトを成功させました。これらの業績に対して、ブータン国王は、「ブータンの最高の人」を意味する「ダショー」の称号を与えて、高く称賛し、謝意を伝えました。
 1981年に、それまでにブータンについて学術調査・研究を行ってきた人々が中心になり、日本・ブータン友好協会が設立されました。これは日本とブータン間での民間レベルの交流を通じて両国の相互理解を深め、友好親善を促進することを目指しています。1986年、日本とブータンとの間に正式に国交が樹立されました。
 1989年には第4代国王が昭和天皇の大喪の礼に出席し、1990年の天皇陛下の即位の礼にも来日して、民族服を纏った来賓は特別の注目を浴びました。1990年の大阪で開かれた「花と緑の万博」に、ブータンの国花である「青いケシ」が展示されて話題を呼びました。1988年から、ブータンの発展を援助するためのボランティアとして青年海外協力隊(JOCV)、2001年からシニア海外ボランティア(SV)が、JICA(国際協力機構)から毎年派遣されるようになりました。
 日本はブータンに対するODA援助として、無償資金援助(これまでの総額約300億円)を含む2国間援助事業を継続的に行ってきました。2006年以降で、ブータンへの経済協力の金額は、特別の関係にあるインドを除けば、出資額で日本は世界トップになった時期もあります。
 2017年6月に、ブータン国王の招待で、秋篠宮眞子さま内親王がブータンを訪問され、ティンプーで催された第3回ロイヤル・ブータン花展覧会に来賓として参加されました。また、2019年8月には、秋篠宮親王殿下と同妃殿下が、お二人の息子さまである悠仁親王殿下とともに、ブータン国王の招待によってブータンを訪問され、日本の皇族とブータンの王家の人たちの親交を温められるとともに、日本とブータン両国間の友好親善の進展に貢献されました。
 ブータンを訪れる日本人観光客の数については、2012年においてその数が7,000名を超える時期がありましたが、その後は徐々に減少する傾向にありました。2019年の年間日本人の観光客数は3,010名で、ここ数年はこの人数に近いレベルで安定しています。この値は、世界中の各国からの観光客の数と比較して、10番目となっています。このことについては、ブータン・メニュの「ブータンツーリズム統計」のページを参照してください。