ブータンの宗教

 ブー タンの宗教は,19世紀末以降に南部国境沿いの地域に流入したネパール系住民にヒンドゥー教徒が多いことを除くとチベット仏教が支配的であり,仏教以前に チベット圏で盛んであったとされるボン教[ボェン教,ポン教]も含めて,チベットからの影響が非常に大きいといえます。チベット仏教,さらにはボン教以前 の宗教の要素を受け継いで仏教やボン教からの影響をあまり受けていない人々も山地部族の中にはあるかもしれませんが,それはあっても例外的でごく少数の 人々に限られます。したがって,そのような特殊な例とヒンドゥー教を除けば,ブータンで見られる宗教はチベット仏教とボン教であるということができます。

  ブータンは,国名をドゥク・ユー[ユル](雷龍の国,ドゥク派の国)と呼ぶことが象徴するように,ドゥク派を国教とする国です。辞書風にいうと,ブータン 語やチベット語で「ドゥクパ」といえば,①チベット仏教の宗派であるドゥク派のこと,②同ドゥク派の信者のこと,③ブータン人のこと,といった具合いに複 数の意味を持ちます。つまり,現地語で「ブータン人」といえばそのままで「ドゥク派」や「ドゥク派信者」をも意味するのです。歴史的には,宗派とその信者 に当てられた語(ドゥクとドゥクパ)が,その宗派が統べるブータン国とブータン人をも意味するようになったのです。ただし,それはブータンでドゥク派の支 配権が確立する17世紀半ば以降のことでした。

  唐代の中国人に「吐蕃」と呼ばれて広域を支配した古代チベット王国は7世紀に成立して9世紀には崩壊しましたが,ブータンはその勢力圏内に含まれ,仏教も その間に伝わりました。パロのキチュ・ラカンとブムタンのジャンパ・ラカンはその「吐蕃」期に建てられたと伝えられ,ブータンで最も古い寺院と考えられて います。また,8世紀にヒマラヤ・チベット地域の至る所を訪れて広く仏教を民衆に根付かせたグル・リンポチェ(パドマサンバヴァ)は,ブータンも訪れたと 伝えられています。「吐蕃」の終わり頃にはチベットでは仏教を迫害したランダルマ王が現れたため,王子(ランダルマの兄弟)の一人で出家していたラセー・ ツァンマがブータンに逃れ,他にも多くの僧がチベットからブータンへ移住したという言い伝えも残っています。なお,仏教以前にチベットで支配的であったと されるボン教についても,「吐蕃」期までにはブータンに伝わっていたと考えられています。

  ブータンがドゥク派の国になる重要な糸口を作ったのは13世紀にチベットから西ブータンへ移住したパジョ・ドゥゴム・シンポ[シクポ]です。その後も, ドゥクパ・キンレー[クンレー](15~16世紀)など,やはりチベットからやってきて西ブータンを中心にドゥク派の布教を行った有力な僧侶が続きまし た。

  ドゥク派の本山は,その開祖のツァンパ・ギャレー(12~13世紀)以来,西ブータンの北部国境から100kmほど北に位置するチベットのラルンの地にあ り,宗教上の権威も僧院に属す資産も,ともにギャ氏によって継承されるという氏族教団のかたちをとっていました。しかし,チベット仏教圏において徐々に 「化身」(転生活仏)の思想が広まるなかで,17世紀に,ゲルワン・ドゥクパ(あるいはドゥクチェン)と尊称されるドゥク派の最高位の転生者の選定をめ ぐって争いが起こり,このなかでラルン寺が後押ししたギャ氏直系の候補者ンガワン・ナムゲルは劣勢となり,彼と配下の僧たちが西ブータンに逃れました。こ れがブータンの地でドゥク派政権が誕生する直接のきっかけとなりました。

  17世紀にンガワン・ナムゲルが西ブータンに移住した頃,既にそこにはドゥク派以外にも多くの宗派が入っていました。当時の西ブータンで最有力だったのは ディグン派(ディグン・カギュ)の一派であるラ派であり,ラ派をはじめとする五つの派の勢力がドゥク派と干戈を交えましたが,ンガワン・ナムゲルはこれを 打ち破りました。また,ンガワン・ナムゲルに対立した候補者を後押しした当時チベット最大の実力者であったツァン(中央チベット西部)の領主が西ブータン に派遣した軍隊,さらにツァンの領主に代わって中央チベットの新たな支配的勢力となったダライ・ラマ五世を筆頭とするゲルク派の勢力が派遣した軍隊をブー タン軍は何度も打ち破りました。そして,ンガワン・ナムゲルは国内の政治体制や税制などを確立し,西ブータンでのドゥク派の支配を完成しました。ンガワ ン・ナムゲルは,シャブドゥンの称号で知られ,彼はブータンを統一した英雄的な高僧として現在でもブータン人に称えられています。ンガワン・ナムゲルの死 後,彼の後継者たちは数十年のうちに現在の中央・東ブータンまで勢力を伸ばし,現在のブータンに近い領土を統一しました。

  このように,ブータンの基礎を作ったのはドゥク派という宗派の勢力であり,その政体と宗教界の頂点に立つのは高僧でしたから,ブータンはまさしくドゥク派 政権の国でした。20世紀の初めに世襲王制が成立したため頂点に立つ者はシャブドゥンの後継者ではなく王と変わり,王国となりはしましたが,ドゥク派を国 教としてシャブドゥンが打ち立てた聖(宗教)と俗(政治)二重の体制は,その両者を束ねるトップがシャブドゥンから国王(ゲルポ)へと変わっただけで,現 在でも維持されています。

  以上のようにブータンの宗教と政治を振り返ると,ブータンに見られるチベット仏教の宗派はドゥク派のみであるかのように受け取られるかもしれませんが,実 態はそうではなくニンマ派やサキャ派もあります。地理的には,西ブータンではドゥク派の影響が濃厚ですが,中央ブータンや東ブータンではとくにチベット仏 教ニンマ派(グル・リンポチェに始まる古派)の僧院が数多くあり,もっとも身近な仏教宗派がドゥク派でなくニンマ派である住民も少なくありません。ブータ ン国内の各地にあるゾンには政府の教団たるドゥク派が入っていることは国内中どこも違いはありませんが,ゾンを除くとニンマ派の寺院が主である地域は中 央・東ブータンには数多くあるのです。

  中央・東ブータンにニンマ派を弘める意味では,ブムタン生まれのペマ・リンパ(15~16世紀)が果たした役割が大きく,彼はグル・リンポチェが隠した埋 蔵法典(テルマ)を見つけたことで有名な埋蔵法典発見者(テルトン)として,ブータンだけでなくチベットでも有名でした。現在のブータンの王家であるワン チュック家も,ペマ・リンパの系譜をもつ家柄とされています。

  さて,17世紀にシャブドゥンと対立した,ゲルワン・ドゥクパ(すなわちドゥクチェン)と呼ばれる「化身」(転生活仏)を長とする勢力はその後どうなった でしょうか? その系譜は17世紀以降もラルンを中心に維持され,現在ではチベット問題の影響でその長はインド北部のダージリンやラダークで信者を持ち活 動を続けています。つまり,チベット仏教圏全体で言えば17世紀以降はドゥク派には二つのグループがあり続けており,ブータンのドゥク派のグループは ロー・ドゥク(南のドゥク派),ゲルワン・ドゥクパのグループはチャン・ドゥク(北のドゥク派)とも呼ばれています.

(月原敏博)

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