ブータン王国の歴史

ブータンの始まり

 考古学的見地からブータンにおいては今から約4000年前から人が住んでいました。すなわち、発掘された石器から人の定住はBC 2000 ~1500年 に遡ることがわかっております。しかし、考古学的調査はまだあまり進んでなく、歴史時代に入ってからの文字記録も1828年のソナガツェル(プナカ)にお ける印刷物の焼失、1832年のプナカ・ゾンの大火、1897年の大震災、1907年のパロ・ゾンの大火などによりその記録の大部分が失われ、この初期の 歴史は伝説、民話や神話などに頼るところが大きい。

 古代のブータンの一部の人々はアニミズム(自然界のあらゆる事物に固有の霊魂や精霊などが宿るとみなし、自然現象はそれらの意思や働きにより起こると信ずる原始的な宗教)の一種で、ヒマラヤの一帯で広まっていたボン教を信じていました。ボン教はブータンに6世紀頃に伝わったと考えられています。

 7世紀 チベットを広く統一した王であるソンツェン・ガンポは、チベットは御し難く荒々しい魔女(精霊女)が覆いかぶさる土地であると見てその身体を釘づけし、悪 行を封じるために多数の仏教のお寺を建てました。(14世紀に著されたプトンの仏教史ではソンツェン・ガンポが建てた12の寺の名前を挙げており、それら を含めて108の寺を建てたとも記しています。)これらのことからこの時期にはブータンに仏教が根を下ろしていたことがわかります。ブータンの古刹として 有名なパロのキチュ・ラカンやブムタンのジャンパ・ラカンなどはそのソンツェン・ガンポが建てたとされる寺のリストに含まれています。(ブータンのお寺に はラカンとゴンパ(ゲンパとも発音されます)があり、ラカン(字義は「神殿」)は普通の寺院で仏教の拝殿ですが、コンパはラカンの機能の他に僧を長く滞在 させる宿舎をもち、1つの自立した僧のコミュニティを維持できる寺院で、僧院とも呼ばれます。)

  8世紀 伝 説によるとスワート地方(現パキスタン北部)出身のグル・リンポチェ(パドマサンバヴァとも呼ばれる)は、抗争で窮地にあったブムタンの王シンドゥ・ラ ジャを救うためにブータンに初めて来ました。その後パドマサンバヴァは何度かチベットとブータンを往復しながら各地でニンマ派の仏教を広めて王や人々の中 から仏教の信者を増やしました。グル・リンポチェに纏わる伝説はブムタン・ジャカルのチュコルある名所クジェ・ラカンやパロの奇観で有名なタクツァンの聖 地に残されています。現在のブータンではグル・パドマサンバヴァは守護神または第二の仏として、また歴史・宗教上の偉大な聖人として崇拝されています。

 9世紀 チ ベット王のランダルマ(在位836年~842年)はボン教を信じて仏教を禁じ、仏教の建物を壊したので、中央チベットではほとんど仏教が消滅しました。こ の時期に多くの仏教僧がチベットからブータンに移住しました。その中には東ブータンに追放された僧侶ラセー・ツァンマ王子(仏教を保護したティデ・ソン ツェン王の子であり、古代チベットの最後の2王、ティツク・デツェン王とランダルマ王の兄弟でもある。)もいました。

 11~12世紀  11、12世紀のチベットでは、仏教が復興し、いくつもの宗派が現れました。その中にはカダン派、サキャ派,カギュ派などがありましたが、カギュ派などは さらにいくつもの支派に分かれて、勢力拡大に凌ぎを削ることになりました。チベットでの宗教上の抗争により、これら支派の一つであるドゥク派の多くの僧が 西ブータンに移住してきました。そのうちの最も重要な僧の一人がカギュ派のラ派のゲルワ・ラナンパであり、彼はティンプーの北の山中にタンゴ・ゴンパを建 てました。

 

 13~16世紀  カギュ派の支派でツァンパ・ギャレー(1161-1211)が開いたドゥク派の仏教が栄え、宗教上でブータンの独自性を持つようになりました。13世紀前 半にパジョ・ドゥゴム・シクポによって西ブータンにドゥク派が導入されました。彼はタンゴ・ゴンパが修行小屋程度でしかなかったものを大きな寺に建て直し て,彼のドゥク派の本拠としました。このゴンパはドゥク派のブータンでの最初の大きな僧院となりました。15世紀では、ドゥクパ・チェンバとその2人の子 であるンガワン・テンペ・ゲルツェンとチュン・リンポチェ・ンガキ・ワンチュクによりブータン内に20以上のお寺が建立されました。さらにドゥク派のラマ (師)はドゥクパ・キンレー(クンレ―)(1455-1529)は偉大な聖人として崇められ、タンゴ・ゴンパを建て直しました。

 グル・リンポチェは洞窟、岩や湖の中に彼の教えを記した多くの教典(テレマと呼ばれる)を隠しましたが、その後それらの埋蔵法典を見つけた僧侶はテルトンと呼ばれて重要な僧侶と見なされました。15世紀半ばの 1450年ブータンで生まれたペマ・リンパは5人の最も重要なニンマ派のテルトンの一人でした。彼はグル・リンポチェの化身とみなされましたが、踊りを創 作し、後に重要なブータンの文化遺産となった芸術品を作りました。彼は生涯で34個のブータンの仏像、巻物や宗教上の大切な遺品を見つけて保存しました。 この遺品は彼がブムタンに建てたタムシンやクンザンダなどの寺院に保存されました。ペマ・リンパの弟や子孫などが東ブータンにいくつものニンマ派のお寺を 建立しました。東ブータンではニンマ派が圧倒的な勢力となったので、その後シャブドゥンがこの地方で国家統一を図ろうとしたときには大きな困難がもたらさ れました。

 

シャブドゥンによるブータンの国家統一

16世紀まではブータンの各地を拠点とした群雄が互いに抗争しながらそれぞれの領地を治めていました。しかし、1616年 ドゥク派の後継者抗争で不利な状況に追い込まれたンガワン・ナムゲル(1594-1651)がチベットからブータンに来てブータンにおけるドゥク派の覇権を打ち立てるようになりました。

 ナムゲルはブータンに来て最初ティンプーのパンリ・ザンパ寺院に逗留しながら、西ブータンを回って仏教の布教を行い、徐々にブータンの宗教上の指導者の地位を確立していきました。

1620年 ティンプー谷の上流のタンゴ・ゴンパに行き、最初のお寺チェリ・ゴンパを建立しました。

シャ ブドゥン・リンポチェ(その足元に人が平伏す高貴な姿、信仰の最高の力などの意味)と名乗って、現在のモデルとなる最初のゾンとして、ティンプーの西にシ ムトカ・ゾンを作りました。シムトカ・ゾンには寺院としての部分と行政を司る役所としての部分が兼ね備えられていました。

 1629年 シャブドゥンに反抗する宗派をまとめてラマ5派と呼びますが、この連合軍がシムトカ・ゾンの建立に反抗して攻撃をしてきましたが、シャブドゥンはそれを撃退しました。

 1639年 シャ ブドゥンが権威の象徴としてのプナカ・ゾンとウォンディ・ポダン・ゾンを完成させましたが、このことに反抗したラマ5派はチベットの軍に援助を依頼して シャブドゥンを攻めました。しかし、シャブドゥンはこれらを撃退し、チベットもシャブドゥンをブータンの最高の地位にあることを認めました。

 1641年 ラマ5派の一つであるラ派が所有していたティンプーのドンゴン・ゾンを入手してタシチョ・ゾンと名づけました。これはドゥク派による西ブータン統一の最後の段階でした。

 1645年 パロのフムレル・ゾンを入手して、リンプン・ゾン(現在のパロゾン)と改名しました。

1647年にもチベット軍がブータンを攻めましたが、これにも勝利し勝利記念としてパロにドゥゲ・ゾン(今も廃墟として保存されている)を作りました。

シャ ブドゥンは1651年に亡くなるまでに、ブータンを統治するための政治体制作りをしました。宗教界の長としてジェ・ケンポ(僧正)、政界の長としてデシ (摂政)という座を置き、国の体制として行政・外交と宗教の2系列の組織に分けました。ティンプーのタシチョ・ゾン、パロ・ゾン、ウォンディポダン・ゾン にはそれぞれゾンポン(城主)という要職を設けました。中央から東ブータンにはトンサ・ペンロップ、南の地方はダガ・ペンロップ、西の地方はパロ・ペン ロップという統括の長が置かれました。ンガワン・ナムゲルの死は1705年になって初めて公にされました。

ナムゲルの死後200年は抗争と内戦の時代となり、この間で56人のデシが出現しました。デシを1、2年で退いた者も多く、一番長くデシの座に留まったのは13代デシで、その長さは20年でした。22人のデシが殺害されたか、抗争により退位させられました。

 

初代国王の誕生への道

  18世紀の半ば、インドのベンガルとアッサムの間にコーチ・ベハールという小さな王国があり、ブータンはこの王国と交流をしていました。1765年から は、インド領知事や軍隊を置いて国の政治に干渉し始めました。ブータンの干渉に抵抗するためにイギリスに援助を求めました。そのために1773年にはブータンはイギリスと争うことになり、ブータン軍は追放されました。1774年ブータンはイギリスと平和協定を結び、デシは東インド会社がブータンから材木を伐採することを許可するようになりました。

 1774年 東 インド会社の使節ジョージ・ボーグルがブータンを訪ねました。ボーグルなど数人の英国人の記録はマーカムによって本にまとめられ、これまで知られなかった ブータンを始めて広く西洋人に紹介されました。その後、アレキサンダー・ハミルトン、サムエル・ターナーなどのイギリスの使節が1776年から1783年の間で数度ブータンを訪問しました。

 1826年 ブータンとイギリスの間で、ブータンの南の肥沃な土地の支配について厳しく争うようになりました。そこはドゥアールと呼ばれる平坦な低い土地で、山地に住むブータン人が先住民を支配下に置いていました。

 1864年 ブータンとイギリスの間でドゥアールに絡んで戦争になり、最後に1865年シンチュラでトンサの領主(ペンロップ)ジグミ・ナムギェルがイギリスと和平協定を結びました。ブータンはすべてのドゥワールの支配をイギリスに譲り、領地を大幅に減らし、ブータンにとって大切な町も失いました。

 1870年 トンサの領主ジグミ・ナムギェルが51番目のデシに就き、ブータン全体への権力を強めました。

 1879年 ジグミ・ナムギェルの息子の17歳のウゲン・ワンチュクがパロのペンロップになり、1882年にはトンサのペンロップとなりました。その後ウゲン・ワンチュクはパロやティンプーの反対勢力を打ち破り、ブータン全体に大きな権力を持つようになりました。

 1897年 アッサム大地震(推定マグニチュード8.7)が起こり、ブータン国内の多くのゾンに被害がもたらされました。

 ウゲン・ワンチュクはブータン国の支配権を強めようと、イギリスとの関係を発展させようとしました。

 1904年 イギリスがヤングハズバンドを長とする軍隊をチベットに派遣し、チベットと協定を結びましたが、その際に、ウゲン・ワンチュクも交渉に参加してイギリスを助けました。イギリスはウゲン・ワンチュクに感謝して、インド皇帝のナイト最高司令官の称号を与えました。

 1907年 その時のデシが亡くなり、ウゲン・ワンチュクが最初の世襲制国王に選ばれました。国王は自らデゥク・ギャルポ(雷竜の王)と称しました。これまで約270年間続いたデシの制度が廃止されました。

 

ブータン王国の発展

1910年 ブータンとイギリスの間でプナカにおいて以前の協定の改訂を行い、イギリスとの間の関係をさらに発展させました。

  国王は国の発展と人々の生活が向上するためにいろいろな政策を実施しました。交通と通信を整備させ、国内の流通を活発にしました。国民の税と国への奉仕義 務が減らされました。多くの僧をチベットに留学させ、それらが教師となってブータンに戻り、国内の僧の教育が改善されました。英連邦のインドからブータン に対する信頼と友好の関係が一段と深まりました。

1926年 ウゲ ン・ワンチュク初代国王が死去し、24歳のジグミ・ワンチュクが2代国王となりました。2代国王はこれまでの封建的社会から中央集権的な近代的な国家に発 展させました。国民からの税の徴収を合理化し、役人の仕事と権力を減らして国民の税負担を軽減しました。これまでの織物、飼料、薪、バターなどによる物納 制を廃止しました。国の近代化のために教育制度を整備し、ブータン人に外国で学ばせることを奨励しました。学校、診療所、道路などを建設し、伝統医学と西 洋医学とを学ぶためにブータン人を外国に行かせました。英連邦インドとの親善友好政策を第2次世界大戦後独立したインドとの間のものに変更するために1949年8月8日にインド・ブータン友好条約を調印しました。この条約によりインドはブータンの内政に干渉しないこと、外交政策についてブータンはインドの指導を受けることが約束されました。

1952年 2 代国王ジグメ・ワンチュクが死去し、ジグメ・ドルジ・ワンチュクが24歳で3代国王となりました。ジグメ・ドルジ・ワンチュクはインドとイギリスで教育を 受けており、チベット語、英語、ヒンデゥ語を流暢に話すことができました。「近代ブータンの父」と呼ばれていますが、政治、税制、教育、外交などの面で ブータンの近代化に大きな足跡を残しました。

1953年 民主的な国家を目指して130人のメンバーからなる国会(ツォンドゥ)を召集しました。

1955年 ティンプーを首都に定めました。

1956年 農奴制度を廃止し、農奴制度に由来する差別用語の使用を禁ずる法令を出しました。

1958年 インドとの関係を良くするためにインドのネール首相とその娘であるインディラ・ガンジーをブータンに招待しました。

1959年 中 国がチベットを支配するようになり(チベット動乱)、ブータンはこれまで支配してきたチベットにあるいくつかの僧院を手放しました。ブータンがこれまでの ように鎖国主義の政策をとっていることは不適切であり、ブータンの独立を守るためには、国として広く国際的な一員とならなければならないと国王は考えるよ うになりました。また、国王はブータンの文化と伝統を守ることが非常に重要であると考えていました。

1961年 第1次開発5カ年計画が開始されました。開発5カ年計画は現在まで次々と改訂されて今も10次5カ年計画として継続しています。インドとティンプーの南50キロのところにあるチュカ水力発電所を建設するための財政援助をすることの協定を結びました。

1962年 開発途上国援助のための国際機関であるコロンボ計画に加盟しました。このことにより東南アジアの加盟国からの技術援助を受けられるようになりました。(西岡京治氏は1964年コロンボ計画の農業専門家としてブータンに赴任しています。)

1964年 ブータンの首相ジグメ・ペンデン・ドルジが国の急速な改革に反対する勢力によって南部の町プンツォリンで暗殺されました。ジグメ・ペンデン・ドルジはケサン・チョデン王妃の兄でした。

1965年 王立諮問会議が設立されました。

1968年 行政の仕組みがさらに改革されて、内閣が設置されました。

1969年 万国郵便連合に加盟しました。

1971年 国連に加盟しました。

1972年 3 代国王がナイロビで客死し(44歳)、ジグメ・センゲ・ワンチュクが16歳で4代国王となりました。彼は父と同じようにインドとイギリスで教育を受けまし たが、パロのウゲン・ワンチュク・アカデミーでブータンの教育も受けました。4代国王は最大総幸福量(GNH)を唱えて、国民の幸せを第一に優先させる政 治を目指しました。そのために4代国王は教育、医療、地方開発、交通・通信などの発展に尽力しました。4代国王は存命でありながら自ら国王を退位して2院 制の議会を構成し、議会制民主主義を発展させました。新しく国の枠組を規定する新憲法を発布させました。

1974年 4 代国王の戴冠式が行われました。戴冠式へは外国から287名が招待されました。招待客を収容するために新たにホテルが作られました。これとは別にこの年外 国から団体観光旅行客を初めて受け入れました。ブータンにおけるツーリズムが開始されたことになります。外国人記者団の入国を初めて認めるようになりまし た。

インドとチュカ水力発電プロジェクト協定を締結しました。

最初のブータンの紙幣が発行されました。

1975年 これまでブータンといろいろ関わりのあった近隣国のシッキムがインドに併合されました。

1983年 パロ空港が開港し、国営航空のドゥク・エアが営業開始しました。インドのコルカタとパロ間に便が飛ぶようになりました。現在はパロとバンコクやニューデリーなどと結ばれています。

1986年 日本との間で正式な国交が樹立されました。

1987年 ブータンヒマラヤへの登山が禁止されました(トレッキングは禁止されていない)。

1988年 不法に国内に滞在する外国人を明らかにするために国勢調査が行われました。

1991年 ブータンがネパール人を排除する政策をとったので、多くのネパール人が難民となってブータンからネパールに逃れました。

1993年 ネパール難民が8万人に達し、国連難民高等弁務官がネパールとインドの国境に難民審査センターを設置しました。

1998年 国王は行政のすべての権限を大臣で構成する委員会に委譲しました。

ブータンで最も有名なお寺であるタクツァン・ゴンパが焼失しました。(2002年に再建されました。)

1999年 テレビ放送とインターネットが公式に開始されました。

2001年 ブータン初の憲法作成の準備が始まりました。

2003年 ブータン南部の森林地帯に10年以上も不法占拠していたインド政府に反抗するいくつかのグループを追放するために、ブータン軍が組織され軍事行動が行われました。

2005年 50 歳になった国王は王位を長男ジグメ・ケサル・ナムギャル・ワンチュクに譲ることを宣言しました。国王はこれまでの君主制では王は世襲で選ばれただけで真の 国民の利益のために選ばれたのではない、と発言しました。そして国が民主的立憲君主制になるために新憲法を作る準備を始め、選挙で選ばれた議員から成る2 院制の国会を作る準備を進めました。

2006年12月 4代国王は退位し、25歳のジグメ・ケサル・ナムギャル・ワンチュクが5代国王になりました。

2007年12月 25名の上院議員を選ぶ選挙が行われました。

2008年3月 国民議会の選挙が2つの政党で争われ、47名の下院議員が選ばれました。

2008年7月 ブータンで初めての憲法が発布されました。

2008年11月 5代国王の戴冠式がタシチョ・ゾンで行われました。

戴冠式の翌日、ティンプー市内の満員のチャングリミリタン・スタジアムで戴冠式の記念スピーチをしました。その中で新国王は人々に次のように約束しました。

As the king of a Buddhist nation, my duty is not only to ensure your happiness today but to create the fertile ground from which you may gain the fruits of spiritual pursuit and attain good Karma.

(仏教徒の国民の王として私のなすべきことは、あなたたちの現在の幸福を保証するだけではなく、信心の十分な恵みを得て、よいカルマが成し遂げられる豊かな大地を創造することです。)

ここでカルマとは仏教の用語で、現世での振舞いとその他者への影響および結果などを仏教的に意味付けし、それらの内容によってその人が生まれ変わる世界が決められるというものです。

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